【前編】GPTRACK50 小林代表インタビュー:少数精鋭チームに求める人材像とは?

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【前編】GPTRACK50 小林代表インタビュー:少数精鋭チームに求める人材像とは?

 

『バイオハザード』、『ディノクライシス』、『デビル メイ クライ』、『戦国BASARA』、『ドラゴンズドグマ』など、名だたるタイトルのプロデューサーを務めてきた小林裕幸氏が、自身の新スタジオ GPTRACK50(ジーピー・トラック・フィフティ)を設立してから約8ヶ月が経ちました。

プロデューサーとして、ゲーム開発だけでなく実写映画やアニメの監修、漫画や小説など各種メディアミックスに関する業務を多岐にわたり行ってきた小林氏の生い立ちから、作品づくりへの向き合い方を紐解きます

コンシューマゲームの進化とともに過ごし、幅広い媒体のエンターテインメントを吸収した学生時代

―――ゲームクリエイターを目指した理由を教えてください。

小学校低学年の頃はメンコやキン消し、あるいは野球などが遊びの中心でしたが、5年生の頃にファミリーコンピュータが発売され、すぐに『スーパーマリオ』にハマることになります。「遊び」という分野において、デジタルゲームが一大ジャンルとなるまでの変遷、過渡期を幼少期に体験した世代と言えるかもしれません。また、自宅にはMSXもありましたので、ごく簡単なパズルゲームを作ったこともありました。

中学時代もファミリーコンピュータ ディスクシステムでよく遊び、部活動の傍らでゲームセンターに通っていた時期もありましたが、高校時代は一転して漫画にどっぷりとハマることになりました。紙の漫画であれば通学時間に読めましたからね。また、時期を同じくしてレンタルビデオサービスが日本でも始まりましたので、この頃からハリウッド映画や日本映画、オリジナルビデオアニメーションなども観るようになりました。

―――ゲームだけでなく、漫画媒体や動画媒体のコンテンツをバランスよく見てきたんですね。また、小学生ながらMSXで簡単なゲームを作ったことがあるというのも驚きました。

ただ、その後はゲームとは少し離れてしまいます。大学ではキャンプやバーベキューなどを行うサークルに所属しており、ゲームも皆で遊べるようなカジュアルなタイトルばかりを遊ぶようになっていました。

研究分野は3DCGで、就職活動では「世の中は一気に3DCGの方向に進んでいく」と考えてメーカー系やシステム系を希望していました。このときまで自分がゲーム業界に進むとは一切考えていませんでしたが、当時はちょうどPlayStation®やセガサターンが登場した時代で、ゲーム業界でも3DCG活用が加速度的に進んでいたんです。「ゲームも好きだったし、3DCGが使えるなら」と何社かゲーム会社を受けてみて、最終的にはカプコンにプログラマーとして入社することになりました。

プログラマーからプランナー、そして26歳で最年少プロデューサーへ

―――プログラマーとして入社後、プロデューサーになった経緯を教えてください。

最初はプログラマーとして『バイオハザード』に関わりました。当時は発売まで1年を切るタイミングで、幸運にも入社1年目で大きなリリースを経験できました。その後『バイオハザード2』のプロジェクトに入る予定でしたが、本作が延期になったため、数名のメンバーがピックアップされて『バイオハザード ディレクターズカット』を作ることになりました。

プログラマーが私を含めて2名、プロデューサーも三上さん(三上真司氏。バイオハザードのディレクターで、2以降はプロデューサーとしても活躍)が兼任という小規模チームでしたので、とにかく「何でもやる!」という意気込みで、プログラマーとしての業務だけでなくプランナーのサポートなどを行っていました。

 

―――1タイトル内におけるプログラマーとの両立は、仕事量的にも大変だったかと思います。

この当時は今ほどハードスペックが高くないので、ゲーム内に入れ込める要素も少なかったんです。一人ひとりが複数の分野にまたがって仕事をすることが一般的でしたね。続く『ディノクライシス』では初めてプランナーとして開発に携わることになりました。部屋単位で仕掛けやマップを考えたり、グラフィッカーに対して発注書を作ったり、全体の進行管理なども含めて担当していました。

『ディノクライシス』のあとは、古巣とも言えるバイオのチームに戻って、3,4ヶ月『バイオハザード3』に携わりました。新人プランナーたちのピンチヒッター役として、ここではゲームバランスの調整や仕掛けのヒントの配置だけでなく、背景など見た目の部分を直すなどの調整を行いました。

さて、次は『バイオハザード4』だ!と思ったら、今度は『ディノクライシス2』が大変なので戻ってきてほしいと。ちょうど、プランナーとして進捗管理などを行っていた関係で、開発全体を一番理解していたのが私だったんですね。バイオハザード3のときも全体を把握して報告を上げる立場でしたので、ゲーム開発の全体像が分かる人間として、ここでアシスタントプロデューサーに抜擢されました。

―――ディノクライシスが1999年7月1日発売、バイオハザード3が1999年9月22日発売ということで、この辺りは短いスパンでプロジェクトを渡り歩いていたんですね。作品ごとに職域が異なるのも珍しいと感じました。

ちょうど三上さんが第四開発部の部長に就任し、部内でもう一人プロデューサーが必要だろうということで、結果的に『ディノクライシス2』ではアシスタントプロデューサーではなくプロデューサーとして関わらせていただいたんです。このときが26歳だったので、最年少のプロデューサー職となりましたね。

そこからは24年間プロデューサーです。『ディノクライシス3』や『デビル メイ クライ』シリーズ、『ドラゴンズドグマ』などを手掛けながら、『バイオハザード』実写映画のプロデューサーも担当しました。また、自身が2005年に手掛けた『戦国BASARA』シリーズではアニメやドラマ、舞台や漫画など、本当に幅広い領域のコンテンツを作ることになりました。その後、自分自身が想う最適なゲーム開発環境を目指すためにGPTRACK50を立ち上げることになります。

 
 
To Creator編集部
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