テクモ出身・起業家のゲームプロデューサー2人が振り返る「ゲームプロデュースとセルフプロデュース 私が来た道・行く未知」前編

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テクモ出身・起業家のゲームプロデューサー2人が振り返る「ゲームプロデュースとセルフプロデュース 私が来た道・行く未知」前編

テクモ出身・起業家のゲームプロデューサー2人が振り返る「ゲームプロデュースとセルフプロデュース 私が来た道・行く未知」前編

多くのGAMEクリエイターは、新卒でゲーム会社に入社し、社内で昇格しながらマネジメント、あるいはスペシャリストへの道を歩んでいきます。
今回、長年ゲームプロデューサーとして活躍され、現在では会社経営者でもあるお二人をお招きし、新卒入社から転職、そして起業から独立に至るキャリアとセルフプロデュースについて、そしてこれからのゲームプロデュースについて語っていただきました。

長谷川 仁 氏
株式会社91Act 代表取締役/株式会社ハイド:執行役員/開発統括/株式会社:スマイルアクス:取締役 長谷川 仁 氏
1995年
2D格闘ゲームが作りたいという思いから株式会社ADK 入社
1999年
時代は2Dから3Dへ変化し、NEO-GEO事業縮小に伴い転職
1999年
中途採用でTECMO入社
2009年
KOEIと経営統合
2009年
KADOKAWAグループにてゲーム専業会社KADOKAWA GAMES設立に参画
2019年
ゲーム事業に25年勤めて、業界への貢献の仕方を変えていくため退職を決意
2019年
17年前からのゲーム業界の中国の友人と合流
株式会社91Act 設立
2021年
中国ゲーム事業を担いつつ、開発会社である、株式会社ハイドで開発統括中

NEOGEO時代に格闘ゲームや、テクモ(現:コーエーテクモ)において『零 zero』シリーズのキャラクターデザイン・アートディレクション・プロジェクトマネージャーを担当後、角川ゲームスにてプロデューサー・執行役員/開発部長を経験。代表作は『影牢』シリーズ、『零 zero』シリーズ、『√Letter ルートレター』など。 現在は、株式会社91Actの代表を務めつつ、株式会社HYDEにて開発統括を担当。

設樂 昌宏 氏
株式会社ウデキキキカク 代表取締役 設樂 昌宏 氏
1999年
テクモ株式会社(現コーエーテクモゲームス)入社
『ギャロップレーサー』や『零』シリーズのアートディレクターを務めた後、複数のタイトルでディレクターやPMを経験。2007年よりプロデューサーとして外部制作タイトルの開発を指揮。『DS西村京太郎サスペンス』 『DS山村美紗サスペンス』『相棒DS』『親子で遊べるDS絵本 うっかりペネロペ』等をプロデュース。
2009年
株式会社角川ゲームスの立ち上げに参加
『ロリポップチェーンソー』をプロデュースし、グローバルでミリオンセールスを達成。
2012年
フィールズ株式会社入社
『銀河機攻隊マジェスティックプリンス』『ハマトラ』などのクロスメディアプロジェクトにゲーム事業領域より参画。
2016年
ネイロ株式会社入社
スマートフォン向けゲームやアーケード向け各種プロジェクトの立ち上げを担当。
2018年
株式会社グラムボックス取締役就任
企画・プロデュース事業に着手し、新規オリジナルタイトルの開発プロジェクトを推進。
2019年
株式会社ウデキキキカク設立
代表取締役就任。

―――設樂さん、長谷川さんのお二人は、テクモ(※現コーエーテクモゲームス)のご出身ですね。
テクモは、ゲーム業界の人材輩出企業と言われています。Aiming社の椎葉社長、あまた社の髙橋社長、JP GAMES社の田畑社長、ソレイユ社の岡本社長といった方々がテクモから独立されて、ゲーム業界を担っていらっしゃいます。
お二人もテクモから独立されたわけですが、転機となったキャリアイベント、あるいはライフイベントを深堀していきたいと思います。
ではまず、ゲーム業界に入ったきっかけからお話しいただけますか?

設樂氏
幼い時の思い出話からになりますが、私が小学校に入った頃、ちょうどファミコンが発売されたのですが、当時ゲーム機はそうそう買ってもらえるものではなかったため、みんなでファミコンを持っている友達の家に集まって遊ぶのが普通の時代でした。
あるときファミコンが賞品となっている母の日の似顔絵コンクールがあって、応募してみたらなんと金賞を獲りまして、それで晴れてファミコンを手に入れて、せっかく本体をもらったのだからとスーパーマリオブラザーズとスパルタンXのソフトを親が買ってくれたことがありました。

中学生になると、当時流行っていたF1とか実家の建て直しがあって建築に興味が出てきて、大学は工学部を目指すつもりで高校へ進学しましたが、そこで物理が苦手だということに気付きました。
でも、やっぱり自動車メーカーや建築業界を目指したい。だったら工学部経由ではなくデザイン経由で目指せばいいんじゃないか?と。そういえば小さい頃、絵を描いてファミコンをもらったことがあるぞ、と。それで高校三年の春に理系コースから急遽進路変更して美大に入りました。

学生時代はプレイステーションやセガサターンの絶頂期で、CGが大変注目されていましたし、大学にもCGの講義やコンピュータールームがあって、CGをいじくりまわしているうちに、ゲーム会社に入ったらもともとやりたかった車や建物のデザインやキャラクターデザインとか、いろいろなことをやれそうだと思って、就職活動してテクモに入社しました。

設樂氏
長谷川氏

長谷川氏
私は1995年にゲーム業界に入ったのですが、その頃はゲーム業界への入り方って今よりも少なかったんですよね。まず、ゲームの専門学校がない。ゲーム会社も大々的に募集をかけていない。何とか入社しても、どこのソフトハウスもマンションの一室みたいなところでバタバタやっている、という状況でした。

まだプレイステーションが発売される以前の話で、ゲーム自体はメジャーでしたが、一般の方への浸透は今ほどでなく、ゲーム業界って怪しいよね?みたいなイメージもありました。この25年間でゲーム業界の構造が変わり、さまざまなメーカーの参入と合わせて、ゲームというものが社会的な地位を得て、ゲーム会社の人も普通の会社員、というところまで来た感じですね。

―――独立された理由は何だったのでしょうか?

セミナー資料:独立した理由

長谷川氏
独立して2年目になるんですけど、なぜ独立したかというと、今までの25年間は自分がやりたいことを優先に自分なりにやってきたのですが、これから先は今の若い人たちの背中を押す側にまわって、残りの人生をゲーム業界に捧げていこうと思いました。25年というと四半世紀ですよね。今までの自分は「俺は俺は」って押し出したてきたのですが、今後は若い人たちに「俺は俺は!」になってほしいと思います。そのためには、いろいろな失敗や苦難があるわけですが、私の25年間のたくさんの失敗と、少しの成功の経験をもとに若手に協力していこうと決めました。

―――ゲーム業界の未来のために、若い人たちのサポートをするのですね。

長谷川氏
きっかけは、小学生の息子がゲームで遊んでいる姿を見たときに、この子に続くこれからの子供たちが遊ぶゲームを作るのは、今のゲーム業界の若い人達だ。とふと思い、前線で体を張って作っているおじさん達も、もちろんすごいことで称えるべき存在ですが、それと同時にもっと今の若い世代にゲーム開発のコアなところを担っていってもらわないと、未来のゲーム産業は明るくならないのでは?そんな風に感じたことがきっかけです。

実際、弊社ではコンシューマーゲーム開発をしていますが、コンシューマー業界は40代がすごく多く、前線で活躍しています。僕はできるだけ、少しずつでも若い人にバトンを渡していきたいなと思っています。リレーのようなもので、開発のタスキをどんどん次の世代に繋いでいきたいのです。

ゲーム産業は今から40年前の1980年頃から活発になり始めました。その頃にゲーム開発を始めた10代20代の方々は今、50代~60代になっていて、僕はこの方々が日本のゲームの礎を築いた方々だと思っています。一方で、僕ら40代は開発手法も業界の構造も大きく変化した時代の真っ只中にいたのですが、先人となる方々と一緒に仕事をして、ゲーム作りにおいて大切なクリエイティビティを学びつつ、同時にモノづくりをハイテク化、効率化へと変えてきました。

ここからは持論になるのですが、僕ら40代は先人がカタチにしてきた、クリエイティブの在り方を細分化して効率化を図っていった世代でもあり、場合によっては効率を優先し、クリエイティブをおざなりにしてきたところもあると思っています。これにより日本が得意としていたゲームで0から1を生み出す技が薄れていったところもあるのではないかと。未来の子供が日本の新しいゲームに夢中になれる日をつくるためには、今の若い開発者に0から1を生み出す苦労と喜びを、今の開発環境下でカタチにしていくことが必要と感じ、自分の道をそこに注ごうというのが大きな理由となります。

長谷川氏

―――設樂さんのゲーム業界に対する思いについてはどうでしょうか?

設樂氏
長谷川さんの話を聞いて思い出しましたが、僕たちが学生の時のゲーム業界ってとてもキラキラしていました。それはなぜかと言うと、当時クリエイターとしてスポットライトが当たりインタビューを受けていた人たちはみんな20代とかだったんですよね。当時から小島監督(KOJIMA PRODUCTIONS)のような方々が既にメディアに登場されていて。僕ら大学生からしたら、すぐ4~5歳上のお兄ちゃんたちがバリバリ活躍している業界って他にほとんど無くて、なんかそこに対する憧れがすごくありました。

そこから10年とか20年経って、メディアに出ている人の代わり映えがしないのは良くないな、と、我々の世代がもうちょっと頑張って世代交代していけたらよかったのかな、と。そんなことを考えていたら家庭用ゲームに代わってスマホのゲームが台頭してきて、それでビジネスモデルやプレーヤーも変わって、結果また若い人たちがたくさん業界に入ってきてくれた、というのは結果良かったなと思っています。

―――ご自身のキャリアの転機となるテクモ退職の理由をお話しいただけますか?

テクモ時代の初期は競馬ゲームやホラーゲームなどを開発してまして、デザイナーやアートディレクターとして現場で手を動かす側で関わったものが多く、テクモ時代の後半になるとプロマネやプロデューサーとして関わるものが多くなりました。当時のテクモには、これがテクモ=人材輩出企業と言われる所以でもあるのですが、『プロマネ制度』というプロデューサー、ディレクター、PMが全部混ざったような地獄のような職種制度があって(笑)、「プロジェクトのことはプロマネが全部責任を持て」みたいな文化があり、あまりにもプロマネ経験者がボロボロになるので私の代を最後にプロデューサー/ディレクター制度に変わりました。

プロデューサーになってからは異業界の方々と仕事をする機会が結構ありました。サスペンスもので出版社の方と仕事をしたり、幼児向けのタイトルではアニメの会社さん、『相棒DS』ではテレビ局さんとお付き合いしたり。異文化交流なんて言いますけど、お互いの常識が違ったりするので実は異業種協業はものすごくトラブルが多いのですが(笑)、それも含めて結構楽しめて、なんとなく心地良く過ごせた時代でもありました。

そこからは長谷川さんと同様に、コーエーとテクモが経営統合するタイミングでプロデューサー的に居心地が悪いなと思う時期があり、そのとき角川グループにゲーム会社ができるという話があり参加したという流れは一緒です。

セミナー資料:携わったタイトル
下段:プロデューサーになってから携わったタイトル

―――角川ゲームスではどんなお仕事をされたのでしょうか?

角川ゲームスには4年ほど在籍しまして、私が入社したときにはすでに角川グループのIPや題材を使ってゲーム化できないか?といった検討がいくつか走っていましたが、なかなかゲームに向く題材がなく苦戦をしていました。ゲームに向かない題材と向き合う日々を何とか打破しないといけない、と思い、任天堂さんに企画提案に行ったりもしました。1~2年その取り組みは続きまして、結局ゲームは世には出なかったのですが、自身が動いた結果、人と人との縁が繋がりに繋がって、詳細はお話しできないものの、その取り組みの副産物としてルーブル美術館のガイド機器にニンテンドー3DSが採用される、という出口にたどり着いたのは面白い経験でしたね。3、4年目は『ロリポップチェーンソー』というゲームの開発を終わらせなきゃいけない役が回ってきたのでこれをやり切った、という感じです。

―――その後の転職から独立に至ったのはどのような背景で?

ソーシャルゲーム全盛になった時、スマホのゲームを開発したいと思って転職を考えたのですが、いわゆるソーシャルゲーム会社の方々は僕よりもひと世代もふた世代も若く、ノリが違うかなと思いました。でも、その中でフィールズは割と落ち着いた会社だったので転職しました。 もともとパチンコパチスロの商社的な会社ですが、「遊技機のことは気にせずに面白いゲームをどんどん作りましょう」と面接で言われて入ったものの、やはり遊技機案件を軸に動かなければならないことが多く、私自身がパチンコ/パチスロをやらないこともあって身動きが取りにくい感じでした。

角川ゲームスを辞めるときも独立は考えていましたが、フィールズを辞めようと思ったとき、ネイロの平井社長から「経営のことを教えてあげるからウチに来たら?」みたいな感じで言っていただいて、50人規模のコンパクトな会社なら経営視点で経験も積みやすいので有難いな、と。それで2年ぐらいお邪魔しました。

そうこうする中で、結局いろいろな異業界の方と仕事するのは楽しいな、とか、ゲーム以外のものを形にするのって面白いなと思ったので、一昨年、まずは企画から入るという意味で『株式会社ウデキキキカク』という会社を作らせていただきました。 企画で何かワンヒットを当てたいという思いでやり始めたのですが、自分のスキルと周りから期待されているものとのすり合わせが進んでいった結果、今は「非ゲーム領域をエンタメで楽しく課題解決したり事業化したい」という考えに落ち着いています。

ウデキキキカク

―――ここ20年まさにゲーム開発、ゲームプロデュースというキャリアを歩まれてきたお二人ですが、長谷川さんと設樂さんはほぼ一緒のタイミングでテクモから角川ゲームスに移られているんですね?

長谷川氏
そうですね。設樂と一緒に同じ部署で同じタイトルを一緒にやったこともありました。当時は二人ともデザイナーだったので設樂と一緒に部署のデザインをまとめながら、気付いたらそれぞれプロジェクトをまとめていく流れになっていた感じです。

二人とも若かったので、なんかわかりませんが常に仕事の進め方自体にイライラしていました(苦笑)。自分たちがやった方が早いんじゃないか?という思いから、結局二人とも20代半ばでプロジェクトマネージャーを経験し、それなりの規模のプロジェクトを回したりしていました。なので、なかなか難しいのは承知ですが、そういう経験を今の若い人たちに、タイミングをみて作っていきたいと思っています。ゲーム作り(プロジェクト)を任されるというのは、ゲーム開発だけでなく、予算や人やさまざまな面のマネジメントの経験もしていくので、視点がどんどん変わっていくんですよね。良いゲームを作ること、と合わせて、人や組織を作る。そういった視点があることを見せていきたいです。

―――良いゲームプロデュースには、良い人材の採用と教育が必要ということですね。
お二人がご自身のキャリアを意識し始めたのはいつ頃だったのですか?

設樂氏
やっぱり1つの会社に10年ぐらいいると、このプロジェクトが終わったらそろそろ外の世界を観たいなぁ、と思う人が多いと思うのですが、当時私はニンテンドーDS向けのゲームが多かったので、半年から長くても1年でプロジェクトが手離れしていて動きやすかったのもあります。2009年がテクモに入ってちょうど10年目で、プロジェクトもすっきり終わるタイミングがあって、という時期で動きました。
逆に長谷川さんは当時テクモのチームニンジャという一番尖った精鋭部隊を率いるポジションだったので、身動き取れなさそうだなぁ……と思って見ていましたけど。

長谷川氏
どちらかというとプロデュース志向が強いのが設樂で、僕は内製志向が強かったですね。 これも僕の持論ですが(笑)、デザイナー寿命30歳説というのを説いていまして、30歳までにゲーム業界のデザイナーは未来が描けなければ仕事の軸を変えて行く必要がある。と思っています。もちろん40歳でも50歳でも抜群に戦闘力の高いデザイナーはいます。しかし全員がそうではありません。僕は30歳付近を一つの目安に、このままデザインをずっとやったその先の未来に、どんな未来が待っているのか?を想像する必要があると思っています。トレンドを追っかけている若手デザイナーは毎年どんどん生まれてきているのです。だから30歳を目安に「これしかできない」から「これもできる」というデザイナーになっていかないといけない。そうならないと社会で存在意義を持ったデザイナーになっていけない。という経験から、勝手にその持論を説いています(笑)。

「デザイナーの寿命30歳説」という、衝撃的なご発言がありました。
40歳、50歳になったときのキャリアの選択肢を増やすためにやっておくべきことは?
独立に向いている人はどんな人?
まだまだお二人のお話は続きます。続きは後編をご覧ください。

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To Creator編集部
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